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映画

Osaki Midori Forum in Tottori

 

         ◆映画『こほろぎ嬢』をみる◆
 
   
                      川崎賢子

 尾崎翠「こほろぎ嬢」をすでに読んだ観客のひとりとして、テキ
ストとは異なる映画の設定について、まずふれたい。つまり、映
像における尾崎翠テキストからの自立についてである。そこには
映画によるテキスト解釈や批評の跡も読み取れるから。
 もっとも大きな相違は、映画が全編を鳥取ロケで撮影したこと
だ。そのため小説では、東京郊外に心象風景を重ねた抽象的な
時空であったものが、砂丘があり、海があり、使い捨てではない
モダニズム建築が残る、鳥取の風景になっている。前作「尾崎翠
を探して」にちなんで呼ぶならば、「こほろぎ嬢」は、尾崎翠におけ
る「見出された風景」にあたるのだ。見出されたのは、故郷であり、
小さな砂漠としての砂丘であり、ノスタルジックなモダニズムの風
景でもある。
 尾崎翠の世界の住人たちは、ひきこもりがちなくせに、歩行し、
彷徨するひとびとなので、砂丘をゆく「こほろぎ嬢」とは、象徴的
な映像である。砂漠をゆくノマド(漂泊の民)とまでゆかずとも、も
の書く女はどこにいてどこへむかっていても砂漠に通じる道筋を
胸に秘めているものだろう。砂のうえに定まった道を描くことはで
きず、ノマドは星を読みつつ砂漠をゆくという。
 映画の時間構造については、小説テキスト「歩行」ないし「第七
官界彷徨」の少女・町子が「こほろぎ嬢」へと成長するという解釈
がなされ、町子(石井あす香)と「こほろぎ嬢」(鳥居しのぶ)と、ふ
たりの女優により演じ分けられている。これは、「第七官界彷徨」
「歩行」「こほろぎ嬢」「地下室アントンの一夜」という一連のテキス
トを、連作として扱う場合の解釈のひとつであるというだけではな
く、映像メディアと文学メディアとの分岐点について、考えさせられ
る。無責任な読者としては町子にはそれぞれのテキストのなかの
姿のままでいてもらえばよくて、たとえ「こほろぎ嬢」であれ、なん
であれ、成長するという人間の時間の尺度に合わせることは無
用だとさえ想える。もっとも、町子が「こほろぎ嬢」として訪れた地
下室で、再会する男たちは、詩人(宝井誠明)も動物学者(外波
山文明)も心理医者(野依康生)も、依然として姿を変えることな
く、いわば成長していないというのは、皮肉なジェンダー表象かも
しれないのだが。
 ウィリアム・シャープ(イアン・ムーア)とフィオナ・マクロード(デル
チャ・M・ガブリエラ)との挿話を、ひとつの肉体にふたつの魂とは
いかず、日本語の台詞を使う男優と女優とのふたつの肉体が演じ、
ふたつの肉体の映像が抱き合い接吻する場面では、ううむと首を
かしげつつ、「化粧部屋に隠れた女を出せ」とシャープ氏を責める
仲間の男たちの、男同士の絆すなわちホモソーシャルな欲望の暴
露的映像に、にやりとする。図書館の食堂で、女詩人「こほろぎ嬢
」と産婆志望の未亡人(片桐夕子)との対照性の際立つあわいに
フィオナ・マクロードの映像があらわれる場面では、これはうまいと、
スクリーンの上の女優の肉体に感歎してしまう。尾崎翠は「映画漫
想」のなかで、映画はおおきいおばけだと書いた。そのことを想い
出す。
 おおきいおばけの肉体が、時間と空間を埋める。あえて舞台人
から多くをキャスティングしたという監督のもくろみが功を奏してい
ると想う。風景と肉体と衣裳、それぞれがじつに映像としてゆたか
だ。とりわけ町子の肉体と衣裳とのなじみ具合が、好ましい。
 吉岡しげ美の音楽はなつかしく胸にしみる。映画のなかの旋律
が、口ずさみたくなるほど記憶に残るということは、めったにない、
うれしい体験でもある。
 尾崎翠のような作家とは、愛読者ひとりひとりそれぞれにかけが
えのない「尾崎翠」像をかかえていて、そのためにつねにすでに複
数性において読者ひとりひとりの心の眼にうけつがれ、いのちを持
つような作家である。そのような作家の世界を映像化することの怖
さとスリリングなおもしろさについて、映画は尾崎翠の言葉を引用
して噛みしめているのだろうか。いわく「人間の肉眼といふものは
宇宙の中に数かぎりなく在るいろんな眼のうちのわずか一つの眼
にすぎないぢやないか」と。
 映画化とは、文学的モチーフを映像に置き換えることではなくて、
映像による文学批評であったり、文学のなかにある映画的装置の
発見だったりするところがおもしろい。たとえば、土田九作の部屋
にかかる渋茶色の風呂敷は、日よけのカーテンを兼ねると同時に、
まぎれもなく魂の「スクリーン」なのだということに映像は気づかせ
てくれる。メタシネマの力だ。「僕は、机の向ふに垂れてゐる日よ
け風呂敷に僕の精神を吸ひ込まれて、風呂敷が僕か、僕が風呂
敷か、ちよつと区別に迷ふことはあるが、それにしても、ぢき、僕の
心は、一枚の風呂敷から分離して僕自身に還るんだ」というあの、
主客合一の場としての風呂敷である。
 人間の肉眼から外れてながめると、オタマジャクシの映像は直喩
的にキュートでセクシーだが、豚の鼻の映像は暗喩的にエロティッ
クであった。
                            (文芸評論家)

   

         映画『こほろぎ嬢』のパンフレットより