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今年のフォーラム

Osaki Midori Forum in Tottori

           
          山名立洋 講演抄録

      「翠をめぐるあれこれ」

                養源寺住職  山名立洋

 

 

養源寺の系譜

 私は昭和24年の生まれで団塊の世代の最後の人間です。尾
崎翠との関係で言えば、 翠が53歳の時私が生まれているとい
うことになります。
 私と尾崎翠の関係なんですが、山名家の養源寺に山名立天と
言うのがおりまして、― 「立」という字が私どもの世襲でして、全
て「立」と言う字が入っております。
 立天の妻である 「ぬい」 というのが、 西法寺 ( 岩美町岩井 )
の 「まさ」  さんのお姉さんでして、 ここでまず血縁ができている
わけです。山名立天さんに西法寺からお嫁に来られた。その間
に二人の子供いたんですが早くなくなって養子を迎えています。
  哲郎が― 翠の次兄ですね ― 養源寺に養子に来た。哲郎さん
が旧制の鳥取中学 (現・鳥取西高)を卒業したときに、 もう養源
寺に養子に来ています。単身で養子に来たんですね。子供もまだ
ないということでお嫁さんをもらわなければ、というので「くえ」さん
という方 ― 私から見ればおばあさんに当たる方ですが ― 若桜
の浄善寺(佐々木家)から来ておられる。
 そして、二人の間に子供が四人できました。長男が立雄、二番
目が悦子、三番目が俊雄、そして 礼子がいたんです。 ですから、
その頃は(養源寺は)八人家族だったが、哲郎は昭和四年に亡く
なっています。三八歳でした。
 翌年にお父さんの立天さんが亡くなられた。 そして少し離れて、
昭和一三年に長男の立雄さんも亡くなっている。さらに昭和一五
年にはぬいさんも亡くなる。その後、昭和一八年には地震があっ
て、 お母さんのくえさん、悦子さんのお二人が亡くなっている。わ
ずか一三年の間に六人が亡くなっています。
 俊雄がなぜ助かったかというと、戦争のためちょうど満州へ行
っていました。礼子さんはちょうどその時風呂へ入っていた。 風
呂や便所というものは柱がたくさんありますね。 狭い範囲に柱が
ちゃんと四本立っている。大きな怪我はしたものの命は助かった。
わずかの間に養源寺は二人だけになってしまいました。そういうこ
とをこの家系図が物語っています。

尾崎翠の兄妹

 尾崎翠の兄妹の話になりますが、 長太郎さんとまささんがご夫
婦ですね。長太郎さんは学校の先生で校長先生もしておられます。
子供さんは七人。一番上が長男の篤郎さん、次男が哲郎さん ― 
哲郎さんはその後養源寺へ養子に来た ― そして史郎。 ここまで
男の子が三人。
  そして、四番目が長女の翠です。それから順に薫、操、忍。こう
いう七人兄妹ですが、 この名前の付け方を見ると、一つの法則と
いうか、自分でこういう風に付けたいというのが明らかに出ていま
すね。
 まず、男の子は全部 「郎」 が付いている。それも太郎二郎三郎
というのではなく、学校の先生らしく  「篤」 あつしとも読みますね。
「哲」哲学の哲ですね。「史」 ― 歴史の史というような文字を使って
います。
 女の子は全て 一 文字で読めるということで、 しかもひらがなに
直すと「みどり」 「かおる」 「みさお」 「しのぶ」 と三文字ですね。この
あたりも学校の先生というのは、何かしら規則性を子供の名前にも
反映させたい、ということじゃないかと思いますね。
  哲郎は 大正六年に得度してお坊さんになる資格を取りまして、
「郎」という字が「朗」という字に変わった。生まれた時から養源寺に
来たときにも「郎」だったが途中で得度して、「朗」に変えたと自分で
はっきりと文献に残していますから間違いありません。
 それぞれ子供が何人いたかということですが、篤郎さんは六人、
哲郎さんは四人、史郎さんは三人。翠は結婚していませんから子
供はいない。薫さんは早川家へ嫁いで二人、操さんは松本家へ嫁
がれて二人、忍さんは小林家へ嫁がれて三人、それぞれ子供さん
がいます。
  これらの子供さんは「いとこ会」というのをやっておられて、いとこ
は全部で二〇名いるんです。二〇人そろって養源寺の広間でいと
こ会をされていたんですが、今では一〇名がご存命ということです。
こういう家族構成でした。

兵学校の篤郎さん

 篤郎さんは明治四二年に海軍兵学校第三七期生として卒業して
おられて、将来に海軍大佐になっておられます。篤郎さんに関して
は前田多智馬という方が文章を残されておられます。
  前田多智馬という方は どういう方かといいますと、 そのお父さ
んが鳥取県出身の方のようですが、住んでいたのは兵庫県で、こ
の人は第五〇期生として海軍兵学校に入られ、そこで篤郎との知
遇を得た。
  「兵学校というところは予め枠を作っておいて、 この枠の中に
生徒という人間を詰め込んでゆく、 そういう教育をする。 角のあ
るところは削ってゆく、 出過ぎるところは撓め直す。 情け容赦な
く、 絶対に殴られても蹴られても ケロリとしていなければならない。
そして課業に熱中して全科目に優秀な成績を得て、卒業時には短
剣を拝受する ― これは天皇陛下が下さる短剣ですが ―」というの
が模範の生徒なんです。
 海軍の将校を目指して一所懸命勉強するわけですが、大佐まで
はいわゆる重役クラスではないんですね。そうなるのは少将・中将
・大将でそういうものを目指していく。レベルで言うと、東大へ入るか
海軍兵学校へ入るか、というほどのものでした。
 その前田多智馬さんが色々と思い悩んで、夜間に篤郎の官舎を
訪ねた。 そこで尾崎大尉は 前田と故郷を同じくし平素から敬愛し
てやまぬ教官であったから、 前田は余すところなく 心情を披瀝し
意見をお聞きしたいとを仰いだ。
 尾崎大尉は「お前の気持ちはよく分かる。 その気持は決してお
前一人が持っているものではない。私自身もそんな感情を持った
こともあるし、 同期にも何人かはいた。 しかし皆いつか心境を変
えて立派な士官として 今も勤めている。 仮に学校を退くとしても
三年の空白を取り戻すことは容易なことではないぞ。まもなく遠洋
航海に出発するが、遠洋航海だけは経験しておけ。それは余人が
望んでできることではない。貴重な人生行路の一コマとなるに違い
ない。見聞を広めることによってお前の視野が変わってくることも
あるかも知れない。しばらく忍従せよ。それでどうしてもお前の気持
ちが変わらねば、その時はその時だ」 と言って諭しているわけです
ね。
 前田は、 情宜を尽くした上官の言葉に従うことになる。 このよ
うな文献が残されています。この文献はインターネットでも探すこ
とができますから、興味のある方は是非どうぞ。

翠伯母の思い出

 私も尾崎翠のことを直接知っていると言っても、ずいぶん前の
子供の頃のことですんで、 記憶も途切れ途切れのところもありま
す。 私の母の山名政子と 尾崎翠が毎日出会っていましたので、
その時のことを 「翠のある日」 ということでラジオドラマ風に作って
みました。 翠さんが毎日私の家へ上がり込んで、 色々な話をした
が、どんな雰囲気だったのか。 母の政子から私が聞いたこと、私
が覚えていることをドラマにしたんです。(ドラマは略・報告集に掲
載)
 翠のキーワードというものを私なりに考えてみました。 やはり、
お寺というものを離して考えられないと思います。 お母さんが西
法寺の娘さんでした、ということが一つ。 それから叔母さんが養
源寺の坊守だった。 ( 浄土真宗ではお寺の奥さんのことを坊守
と言います。とても良い言葉だと思います。)
 それからお兄さん (哲郎) が養源寺の住職でした。 (正確に言
うと住職になっていないんです。 義父の方が 自分より長生きして
いるんで、自分が住職になることはなかった。
 立天さんの息子に立雄さんという方がいたんですが、 立雄さん
も住職にならずに、立天さんから一気に私の父である山名俊雄に
飛んでいる。俊雄は一九歳で住職になりそれから六四年間住職を
していました。 それから養源寺の借家が自分(翠)の住居だった、
という風に非常にお寺となじみ深い人だなあと思います。
 それから裁縫がとても好きだったと思います。女学校時代にも
結構得意にしていたようです。家計を助けるためにずきんを縫っ
てたりもしました。 何着も着物を縫って、 親族も 「 私ももらった
よ」 「私ももらったよ」  と皆が言っています。 親類中に自分で着
物を縫って配っていたんじゃないでしょうか ? 裁縫は翠の中で大
事な部分ではなかったかと思います。
 それから 「食べる」 ということですね。 食べることが非常に好
きだったようです 。 皆が 「いい、いい」 という店ではなく、 誰も
行っていないような新しい店に行くのが好きだった。また和食で
はなく洋食に興味がある、ということがあったようです。

料理の腕は?

 ここで皆さんに質問してみたいんですが、尾崎翠の料理の腕は
どうだったと思われますか?浜野佐知監督、どう思われますか?

 浜野: 私は上手だったんじゃないかと思います。料理というの
はセンスですし、やっぱり目の前にある材料でパッパッと作る頭
の良さが必要ですよね。それから私の映画の中にもあるように、
翠さんは非常に鼻が良く利く。新鮮だという魚でも、 いやそれは
少し傷んでいるわ、 という会話があったということなんで、 料理
の腕と言うよりはセンスで料理を作ったんじゃないかな、 と想像
します。

 ありがとうございます。じゃあもうひと方。日出山陽子さん、いか
がですか?

 日出山陽子: むかし早川薫さんのお宅に伺ってお話を聞いたと
きに、 料理はお上手だった、 というか変わったものをお作りにな
ったという話を聞いたことがあります 。 なので、 上手だったので
はないかと思います。

 皆から聞いた訳じゃないんですが、私が礼子叔母さんから聞い
た話では、そんなに上手ではなかった。たまに美味しいものを作
ることはあって、それで 「おいしい、おいしい」って誉めると、それ
ばかりがずっと出てくる。ということで、料理はあまり上手ではなか
ったらしいです。 いや、 翠が色々な組み合わせで料理を作って、
たまたま美味しくないときに、玲子叔母さんは当たったのかも知れ
ませんけどね。

翠はどういう人?

  翠はどういう人だったのかな、 と思うんですが、 親族をとても
大切にした人ではなかったろうかと思いますね。その一つは、先
ほどいとこが二〇人いると言いましたが、その内の四人を結婚さ
せているんですね。一人は海軍大佐であった長男篤郎の六人姉
弟の末っ子の久枝さんという方を、三男史郎さんの長男の興一さ
んとを結婚させておりますし、早川家に嫁いだ薫さんの子供の通介
さんと、操の子供の洋子さんの二人を結婚させております。この仕
掛け人は翠さんだったと聞いております。
 二〇人いる内、この二人は相性が合うとか合わないとか、尾崎
家を大事にしてくれるんじゃないか、と考えたんじゃないか、そうい
う風に親族を大事に思う人だったと思います。
 親族以外の人にも、 とても面倒見が良くて、 色々な人に対して
できる範囲のことを精一杯やっておられる。 面倒くさいということを
いとわない。そういう性格だった。
  また子供が大好きだった。裏の寺町から抜けると職人町に出る
んですが、職人町には八百屋さんがあって、そこへ毎日買い物に
行くんですが、 その途中で養源寺の境内を通る。 するとそこで子
供たちが遊んでいる。 とんぱいというのは 石蹴りのような遊びで
すが、 ( 石を投げてケンケンして跳ぶような遊び ) その子供たち
の遊びをニコニコして見ていたとのことです。 子供を好きでないと、
子供の遊びをじっと見るということはないと思います。
  それから気配りの人であった。 養源寺でよく法事があったんで
すが、 尾崎家の方も多く亡くなっていますから、 皆が集まってさ
あ記念写真を撮ろうという時、 私の母の政子は坊守で裏方のよ
うな仕事をしていますから、そういうところへしゃしゃり出る必要は
ないのですが、そういう時も「政子さ―ん」と庫裡の方まで呼びにい
って、「あなたも一緒に写真を撮りましょう」 と自分の隣に座らせて
写真を撮った。なかなかそういう気配りはできるものではありません
よね。
  それから、 美味しいものを食べに行く、 ただし 「 割り勘だよ 」
ということがあります。 人間というものは そういう時に何回かに
一回は見栄を張って、「私が一番年上だから今回は私が奢るよ」
なんて言ったりするものですが、そんなことが長続きするわけが
ない。 自分が貧乏だと言って、 ちっとも恥じることはない訳です
から、決してそんなことは言わない。全く飾り気のない人でした。
 格好は付けるんですよ。格好を付けるのは自分の力で格好を付
ける。 飾るというのは 他人の力を借りて自分を飾ることですよね。
格好を付けることは 尾崎翠はたくさんあるけれど、 決して飾って
いるわけではない。そんな感じが私はしているところです。

第七官について

  養源寺の中庭に、 (写真を示して ) こういう風にスギゴケがあ
るんです。スギゴケは根から水を取るのではなく葉っぱからです。
ですから、 スギゴケにはとっては水蒸気がたくさんあってサウナ
みたいになっている所が一番良いんです。「第七官界彷徨」の中
に「私の眼には机の上の湿地が……」と書いてあります。
 これは小野町子の言葉なんですが、この写真の角度を変えると、
向こうが空でこちら側に森林が茂っているような感じがするんで
すが、たぶん尾崎翠はコケでも見る角度を変えれば森林のように
見える、と思ったんでしょうね。
 それから分裂心理のことですが、町子が一助の部屋を掃除する
場面で「第一心理は識閾上にて自覚される、第二心理は識閾下深
くに沈潜して自覚されない」と言っているんですが、「識閾」 という言
葉は難しい言葉でして「ある意識作用の生起と消滅の境界」という
意味です。
 仏教には、 五識、六識、七識、八識というのがありますが、五
識というのは五感という風に考えると良い。 視覚、 聴覚、 嗅覚、
味覚、触覚の五つの感覚。六識は、ま第六感ですね。ここまでは
よく使いますが、尾崎翠は「第七官」という言葉を使っています。
 仏教では七識は、無意識の領域での心の感覚。また八識という
のは無意識の底にある本質とか真髄とか言っているんですが、こ
の教説をマスターするには一年かかると言われているので、 今す
ぐに理解してくれとは言いません。
  例えば、睡眠を取っているとき、 眠る前の直前のことは、自分
でもはっきり覚えていますよね。それから七時間たって再び目覚
めたとき、その七時間のことは覚えていないですよね。 寝る前と
目覚めてからのことは覚えていても、 寝ている間のことは覚えて
いない。そういうものは、心の底の深層の中にある。
  第七官の中では、第一心理と第二心理が抗争している。その抗
争ということは、実は仏教の中にもあるんです。唯識という考え方
では深層に眠る種子(しゅうじ)― 種子(しゅうじ)ということは潜在
的な業(ごう)ということですが ― によって 心理が抗争することも
協調することもある、という考え方です。 深層の種のようなものが、
今の心理と反するような場合は、抗争するんですね。ただしそれが
同じような方向に進んでいるときには、 協同してどんどん増幅して
ゆく。こういうことが仏教の中にある。
  「第七官界彷徨」 の中でそういう 「心理・抗争」 という言葉が
出てくるということは、翠が仏教に ― 哲郎の専門である 「華厳
経」から 「唯識」 へ進む、そういう話を聞いていた、 あるいは読
んでいた、だからこういう文章が書けたんだな、 と私は思ってい
ます。
         
     (記録・西尾雄二/抄録・土井淑平)

 

※ 講演の詳細は 『尾崎翠フォーラム・in・鳥取2010報告集』
(12月中旬
刊行)に収録します。報告集の問合せと注文は以
下まで。

       manager@osaki-midori.gr.jp