◆ 尾崎翠の新資料が見つかる◆
今年の『尾崎翠フォーラム・in・鳥取2002』を前に、翠関係の新資料が見つかりました。
1つは尾崎翠が鳥取高等女学校に入学した1909年(明治42)4月13日付で、父親の尾崎長太郎が親族に当てて出した喜びのはがきで、『日本海新聞』(6月22日)が特ダネとして報道しました。
もう一つは尾崎翠から橋浦泰雄に当てた書簡3点で、発掘者の石原深予さんより託されて、尾崎翠フォーラム実行委員会が7月4日発表しました。以下はこの書簡についての石原さんの寄稿です。
尾崎翠の新出資料について
石原深予
1、新出資料の内容
第2回「尾崎翠フォ−ラム・in・鳥取」で報告できた尾崎翠の新出資料は、「橋浦泰雄関係文書」(注)に収められている、橋浦泰雄宛の尾崎翠からの書簡3点です。
・昭和5年4月28日付、橋浦泰雄宛(手紙)
・昭和5年5月17日付(消印は16日)、橋浦泰雄宛(はがき)
・昭和5年9月16日付、橋浦泰雄、夫人宛(手紙と為替)
1、2は鳥取の自由社主催の文藝思潮講座のための、詩人生田春月の鳥取帰郷に関係する連絡事項のため、3は文藝思潮講座に続いて開催された「橋浦泰雄作品頒布會」で翠が橋浦の絵画を購入した、その代金支払いのための書簡です。この文藝思潮講座の講師として翠、春月、秋田雨雀、橋浦泰雄が招かれますが、春月はその直前に瀬戸内海で汽船から投身自殺します。1、2の書簡で翠は精神的に不安定だった春月に対する配慮をみせています。また、この文藝思潮講座での翠の演題は「反自然主義文学の各分野について」「表現派の作品二、三に就て」でしたが、そのような事情のため「生田春月氏の追憶」に変更します。なおこれら書簡は、現在所在が判明している、最も古い、翠執筆の書簡です。
(注) 橋浦泰雄(明治21年(1888)〜昭和55年(1980))は翠と同じ岩美町出身で、画家、文学者、民俗学者等として幅広く活躍した人物です。橋浦泰雄についての詳細は鶴見太郎著『橋浦泰雄伝 柳田学の大いなる伴走者』(晶文社 2000 )をご覧ください。鶴見氏は史学・民俗学者で柳田学の学史をご研究されています。
「橋浦泰雄関係文書」は鶴見氏が調査、整理されており、『橋浦泰雄伝 柳田学の大いなる伴走者』の末尾にこの「関係文書」の紹介があります。鶴見氏のこのご著書は橋浦泰雄という人物の魅力、鶴見氏の橋浦に対する敬愛の念が行間から伝わるたいへん感慨深い労作で、素晴らしい伝記作品です。
「橋浦泰雄関係文書」には様々な資料が含まれますが、書簡類は概算でも4000通を越え、柳田国男85通、有島武郎33通、中野重治6通等の貴重なものが含まれます。膨大な「橋浦泰雄関係文書」のなかから尾崎翠の書簡3通を確認されたのは鶴見氏で、今回の新出資料は鶴見氏のご尽力によります。また橋浦泰雄のご遺族の橋浦赤志氏は資料の閲覧に関して快諾下さいました。今回の新出資料の発表はお二人のご好意に支えられたものです。
なおこの新出資料については、前述の鶴見氏のご著書と佐々木孝文氏(鳥取市歴史博物館学芸員)のご論文『「永遠の妹」と「九百人のお兄さん」―大正・昭和の鳥取文壇と尾崎翠―」』(「ファイ 人文学論集 鳥取」臨時増刊号 2001年 6月所収)に言及があります。資料の内容がすべて公表されたのは今回が初めてですが、わたしは佐々木氏から新出資料や鶴見氏についてご教示頂き、今回の資料発表に関わることになりました。
2、新出資料によせて
これら書簡が橋浦と交わされた時期(昭和5年)の尾崎翠は、前年(昭和4年)の次兄の死、親友松下文子の、夫に帯同してのベルリン行き、と寂しいことの重なったあとで、それらの後の翠の文学活動の展開や鳥取出身者たちとの交友を知る上で今回の資料はたいへん貴重であると思われます。
昭和5年は翠にとっては、『女人藝術』へ翠の唯一の翻訳、「モレラ」(アラン・ポ−作品)の発表、名高い「映画漫想」の連載、また『女人藝術』『詩神』での座談会への出席2回、年末からの「第七官界彷徨」の執筆と、文学活動、交友関係に広がり、変化をみせた年で、この資料はその活動の一端を示すものではないでしょうか。次年昭和6年には翠は代表作となる「第七官界彷徨」を発表します。
橋浦泰雄は有島武郎との強い信頼関係がありましたが、晩年の有島の文章「詩への逸脱」(『泉』大正12年4月)への強い共感を、翠は昭和5年5月号の『詩神』での「女流詩人・作家座談会」で語っています。(「作家側から言ふと、有島さんが、晩年に唱へた「詩の逸脱」あれをやつて見たいのです。」「形は散文でも非常に言葉を惜んで、而もテンポを速くする。そこで詩への逸脱といふことを非常に思ふのです。有島さんの晩年の心境は非常に首肯るのです。」)
この座談会は鳥取での文藝思潮講座の時期と重なります。この時期でないにせよ、橋浦と翠との間で有島について語られたことがあるのかもしれません。また『泉』は有島の個人誌で、翠が『泉』を読むきっかけには橋浦が関わったのかもしれません。有島は自殺していますし、春月に対する書簡1、2での配慮は有島を想起してのことかもしれません。翠は春月夫人の生田花世と親しく、春月に対する心配はたいていのものではなかったでしょう。
花世と翠の交友は翠の昭和7年の鳥取帰郷後も続き、翠は「微笑花世」という文章を鳥取の歌誌『情脈』(昭和8年11月号)に発表しました。「真剣な話し手と静かな聴手・・さうざらにある対人関係ではないであらう。花世女史と私とは、どうした加減からかそんな対人関係の一例を形作つてゐる。」
※ 新資料についての『日本海新聞』の掲載記事、および、橋浦泰雄宛の書簡の内容は、尾崎翠フォーラム実行委員会発行の『尾崎翠フォーラム・in・鳥取2002』(11月刊行)に収録の予定です。