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書籍紹介

Osaki Midori Forum in Tottor

 

                          =書評=

  武内佳代「町子のクイアな物語」

     (『国文』110、2008年12月)ほか

 


 〈成長〉と〈彷徨〉  ――〈連作〉とは何か――

   布施 薫 (東洋学園大学・二松学舎大学非常勤講師)
                          

 武内佳代「町子のクィアな物語――連作としての尾崎翠『第七
官界彷徨』『歩行』『こほろぎ嬢』――」(「国文」一一〇、二〇〇八
・一二)を読む。モチーフや語りに目を向けることにより、女性主
人公を持つ尾崎翠の代表的な三作品を 、 明確に連作を意識し
て書かれたものとして定位しようとした、意欲的な論文である。
 筆者はまず、 クィアという概念を導入することによって、 まず
は「第七官界彷徨」における町子の〈ひとつの恋〉の性質を明ら
かにしようと試みている。筆者によればクィア(Queer)とは、〈異
性愛主義はもちろんのこと、同性愛/異性愛 といったカテゴリ
ー自体にも疑義を呈す、ジェンダーの性別二分法の固定性その
ものを脱構築するような、より思弁的な表象批評を指す〉とのこ
とである。尾崎研究史の中で 「クィア」 という用語自体は確かに
目新しいが、特に違和感なく読める。筆者によれば、町子の〈ひ
とつの恋〉とはすなわち、〈浩六への対象愛的な恋情と女詩人へ
の自己愛的な恋情との混淆的欲望の形〉とのことであり、それは、
数年前に私が町子の〈ひとつの恋〉について論じた際(拙稿「数
字の恋」「遊卵船」二、二〇〇五・五)には思いつかなかった、清
新な視点である。
 ただ、紙幅の関係もあるのだろうが、〈第七官〉、および、青年
たちの恋と失恋に関する分析等においては、随所に物足りなさ
も残る。たとえば筆者は、〈第六官〉を〈恋愛をしてゐる〉感覚と
定義づけた一助の台詞を援用しながら、〈第六感の先にあるは
ずの「第七官」の感覚が、 とりわけ 「恋愛してゐる感覚」からの
超脱〉であると位置づけたり、〈第七官〉とは〈男/女で感覚を共
有(分有)し、 互いの境界が不分明になるような心理状態〉と定
義したりしているが(すなわち、クィアな欲望)、作中の「第七官」
の意味は、そうとだけ割り切れる種類のものではない。たとえば、
家族の住む家の四方を取り囲む蜜柑の木は、 町子が上京した
際には 〈さしわたし四分ばかり〉 の食べられない青蜜柑でしかな
かったが、後に〈さしわたし七分〉の大きさに成長した際には、隣
家の少女と〈三五郎の恋の手助けをする廻りあはせ〉になるわけ
で、その異性愛的な恋愛をとりもつ 〈七〉 を筆者がどう扱うのか、
ぜひ聴いてみたいという感想を持った。ただし、大枠においては、
私もかつて〈第七官界〉を、〈植物と人間の境は消え、男女のジェ
ンダー的境界も薄れ、皆が皆、苔のように発情する〉時空と位置
づけたことがある(拙稿・前掲)ので、 共感する部分も多かった。
ただ、〈七〉は尾崎が愛した映画(=第七芸術)、ことにジャネット
・ゲイナーとチャールズ・ファレル主演の「第七天国」にインスパイ
アされた部分も多々あるように思うので、 異性愛の物語である
「第七天国」との関係を、筆者がどのような形で処理するのかは、
聞いてみたいところである。
 また、筆者は、青年たちの恋愛と失恋を指して、 〈 家父長的な
恋愛幻想の構造そのものを戯画化しつつ穿つもの〉と位置づけて
いるが、尾崎自身が〈登場人物達の性格の色分けは問題とせず、
むしろ彼等を一脈通じた性情や性癖で包んでしまふことを望みま
した。彼等は結局性格に於ける同族者で 〉 ( 「「第七官界彷徨」
の構図その他」)と語り 、事実、作中でそれを相当に実行してい
るように見える中、あえて町子の恋愛と青年たちの恋愛を区別し
て筆者が定義する意図がわからなかった。町子による 、通常の
恋愛の超克は 、〈近代家父長制のジェンダー規範を支える恋愛
のパラダイム、すなわち男性優位的な異性愛イデオロギーを解
体するもの〉といった形でわかりやすく整理できるものではありえ
ず、もっと複雑で独特の形態として見出されるものではないのか。
全体を通して、クィアという切り口はおもしろく 、 そこから導き出
される論は魅力的ではあるが、それだけによって作を分析しては、
こぼれ落ちるものが多々ある気がして勿体ない、という感想を持
った。
 筆者はつづけて 「 歩行 」 を論じ 、 その主人公である町子を、
「第七官界彷徨」の町子の前身と考えている。二作の関係を、町
子の〈成長〉という形で直線的に結ぶことにより 、 明確に連作と
して位置づけようと試みているのだが、なぜ筆者はここに町子の
〈成長〉を見ようとし 、 二作の繋がりの中に 〈発展の物語〉 を見
て取ろうとするのであろうか。 私はかつて拙論において、 「第七
官界彷徨」一作の中に町子の成長を見ようとする石月麻由子の
論(「〈影〉への志向――尾崎翠「第七官界彷徨」試論――」「早
稲田大学大学院文学研究科紀要 第三分冊」二〇〇四・二)に
疑義を呈したことがあるが、〈彷徨〉の語に、なぜあえて 〈前進〉
〈成長〉〈発展〉といった語を上書きすることによって〈彷徨〉を消
去しようとするのかが、今もわからない。同じように、本論におい
ても筆者が、「歩行」「第七官界彷徨」二作の連なりの中に、なぜ
町子の〈成長〉を見出したいのか、理解することができなかった。
確かに土田九作から贈与された詩の言葉に従い、 幸田当八に
対する「おもひを野に捨て」るために上京を企て、〈現実的な規範
の模倣や反復によらない「恋」の詩境を求め〉たとする論は興味
深い。しかし、たとえば「第七官界彷徨」一作の研究史においては、
先の石月の論よりも、川崎賢子の「尾崎翠の〈少女〉は(中略)病
めるときも健やかなるときも一匹狼、境界線上をうろうろとぼとぼ
とさまよっては、パロディやパスティーシュの種子をまくひとなのだ」
(「小説のたくらみ――〈少女〉にしかできないことがある」「鳩よ!」
一九九九・一一)という見解のほうが、遥かに尾崎テキストに密着
した、正確な読みであるように私には思える。同様に、今回筆者が
取り扱う三作の作品世界に関しても、重なり合いつつズレ合いもす
る三つの円をイメージする私は、そのズレたもの同士がポリフォニ
ックに響き合う豊かさの中にこそ、三作の連関の独特の様相を見
て取ることができると考えている。それは、複数の作を単線上に並
べ繋げることによってはおそらく決して実現できない。
 もちろん、 そのことは既に筆者にも気づかれており、 ただ紙幅
の関係上、仕方なく重なる接続部分についてのみ集中的に読解を
試みたのかもしれない。
 つづいて 「こほろぎ嬢」を論じる筆者は、この作の語り手が、「
歩行」の登場人物・幸田当八に言及していることを根拠に、当八
のエピソードを知る〈『歩行』の語り手「私」=町子〉こそが「こほろ
ぎ嬢」の語り手でもある、としている。
 これは全くの私見だが、私の手持ちの辞書 ( 『クラウン独和辞
典』CD-ROM版)によれば、ドイツ語のGrilleの意味は、「 (1)コオ
ロギ(2)気まぐれな(突拍子もない)考え、 憂鬱」であり、(2)の使
用例として 「Grillen fangen ふさぎの虫にとりつかれる」という文例
が挙げられている。「ふさぎの虫」といえば、「歩行」の町子の祖母
が「ああ、うちの孫はこのごろまつたく運動不足をしてゐて、ふさぎ
の虫に憑かれてゐる」 と嘆くシーンがすぐに想起されるが、そうい
った意味でも私は、尾崎に「こほろぎ嬢」と「歩行」の世界を連繋さ
せる意図はあっただろうと推測しているし、「第七官界彷徨」末尾近
くにおける異国の女詩人への思いが、「こほろぎ嬢」において、「 し
やあぷ」(男)かつ 「まくろおど」(女)であるひとりの分身詩人への恋
へと発展したというモチーフ上の連関に興味を感じてもいる。ただし、
どうしても〈『歩行』『第七官界彷徨』によって自らの過去を綴り直し、
自己アイデンティティとしてのクィアな欲望を改めて確認した町子は、
さらに『こほろぎ嬢』というより物語性の強い作品を通して、ようやく
一人の「女詩人」=女性作家として、現在の自己の内奥を表現しえ
たのではなかったか〉という形で、やはりここに〈成長〉を読み込もう
とする筆者の向きには、異論を感ずるのである。
 たとえば、浜野佐知監督 ・ 山崎邦紀脚本の映画 「 こほろぎ嬢」
(二〇〇七)においては、「歩行」パートと「こほろぎ嬢」パートの繋ぎ
目に、町子が成長してこほろぎ嬢になるというのは〈ひとつの解釈〉
である、 といった意味の、 幸田当八による語りが挿入されていた
(この引用は正確ではない)が、この、〈ひとつの解釈〉である、とい
う言葉が、実に効いている。それは、先にも述べたが、重なりつつ
ズレ合う円に喩えてみたくなる尾崎作品群の世界の豊かさを冒さず、
却ってその言葉の先に、多様な解釈の可能性がありうることを暗示
しているからだ。
 ここに挙げたような疑問点が(他にも数点)あるにはあるが、本論
が興味深く読める好論であることは間違いない。そして、この論の内
容をふまえる形で書かれた、同じ筆者・武内の手になる『明治 大正
 昭和に生きた女性作家たち――木村曙 樋口一葉 金子みすゞ 
尾崎翠 野溝七生子 円地文子』(お茶の水ブックレット八、二〇〇
八・一一)中の「第三章 尾崎翠(一八九六年〜一九七一年)――
〈彼女〉たちの文学的時間」は、丁寧に数多くの注もつけられており、
たとえば初めて尾崎翠の生涯に触れたいと思った場合などには非
常に頼りになる、格好の入門書といえるだろう。一点だけ、尾崎の親
友・松下文子の名前に「あやこ」とルビが振られていた点だけ、 ひど
く気になった。「ふみこ」ではないのだろうか。