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今年のフォーラム

Osaki Midori Forum in Tottori

 

     ◆川崎賢子さん講演抄録◆

『尾崎翠を読む ― 尾崎翠のいる文学史』


              川崎賢子

            講演する川崎賢子さん


 はじめに さまざまな条件

  尾崎翠が傑出した文学者であることは間違いないが、文学史のなかに尾崎翠の占める位置はけっして特異なものでもなければ孤立したものでもない。
 1910年代の大正期、少女としてものを書き始めた尾崎翠が投稿した雑誌『文章世界』に、おなじころ投稿していた作家に吉屋信子がいる。
 現役の文学者として活躍した時期、『新潮』には遠縁と伝えられる、新興芸術派の中村武羅夫がいた。中退したが、日本女子大学では、国文科の同級に、源氏物語研究者の村山リウ、英文科の上級生に網野菊らが在籍した。
 地元鳥取出身の橋浦泰雄とは長く交友があり、南宋書院を起こした編集者の涌島義博、「鳥取県無産県人会」では生田長江、白井喬二、生田春月、花世夫妻とも知遇を得た。
 1927年、昭和モダニズムの興隆期に住んだ東京の上落合は、堤康次郎が当時の「箱根土地」を使って開発した「目白文化村」に隣接する地域で、文学者、画家、文化人が多く住んだ。尾崎翠の知り人のなかでは、吉屋信子、大田洋子、矢田津世子、神近市子、尾崎一雄、片岡鉄兵そして板垣鷹穂・直子夫妻。
 板垣鷹穂は、尾崎が「第七官界彷徨」を掲載した『新興芸術研究』の主宰者で、直子の方は評論家として尾崎翠を評価し紹介した。板垣直子は早い時期に、ナンセンス・モダニズムの時代の井伏鱒二と尾崎翠の類似性に注目している。
 前後して、壷井栄夫妻、宮本百合子、中野重治、山田清三郎もこのあたりに住んだ。画家では、佐伯祐三、「マヴォ」というグループに集ったアヴァンギャルドで知られる村山知義、柳瀬正夢も住人だった。
 林芙美子は貧乏時代には崖下の上落合に住み、そこで「放浪記」を書いて売れると、川を越えて下落合に家を構えた。文学を通しての交友関係に、高橋丈雄、十和田操、中村地平、井伏鱒二、衣巻省三らの名前があがる。
 後期の尾崎翠は比喩を多く用いるが、螺旋の溜息とか、菱形の心臓とかいうイメージは、尾崎翠と同時代の美術を見ると、まさにそのまま形象化されている表象なのだ。先行するダダイズムやアナーキズムと呼ばれた思潮の詩人たちの表現も、尾崎翠はその散文に引用し、消化している。
 1920年代、雑誌メディアが大きな力をもつ時代に、尾崎翠は長谷川時雨主宰の『女人芸術』に、「映画漫想」を連載したのをはじめ、さまざまな個性的な雑誌に寄稿を求められた。尾崎翠が「第七官界彷徨」を最初に発表した『文学党員』には、尾崎士郎、宮本顕治らが寄稿していた。
 全編を掲載した『新興芸術研究』は、板垣鷹穂が主宰、小林多喜二・阿部知二・平林たい子・久野豊彦・林芙美子らの文学者のほか、映画人、演劇人、建築家など同時代の尖端的な芸術家たちがジャンルを越えて寄稿するような雑誌だった。
 一方、1931年に「歩行」が最初に発表された『家庭』という雑誌のほうは、大日本連合婦人会というところが発行母体になってた。これを主宰した島津治子というひとは、昭和天皇の皇后島津良子の縁者として大正末期から昭和初年まで宮中に女官としてつとめ、1927年3月に女官長で依願免官という形を取っている。
 退職して1931年に大日本連合婦人会を結成し、『家庭』という雑誌を創刊したのだが、島津治子は出口王仁三郎の大本教に近かったひと。1936年2・26事件ののちの3月の大本教弾圧時には、おそらくその関係で島津治子も検挙拘引され、精神の病だとされて松沢病院に収容されたと伝えられる。
 2・26事件といえば、翠が「こほろぎ嬢」を発表した『火の鳥』の主宰者、栗原潔子彼女は佐佐木信綱の『心の花』系の歌人で、1939(昭和14)年4月に2・26事件で青年将校に資金を調達したとして逮捕・入獄し仮出獄した陸軍少将にして歌人であった斎藤瀏を主宰とする『短歌人』が旗揚げされると同時に、これに参加している。
 こうしてみると、モダニズムと、ナショナリズム、それも体制擁護型ではない、ナショナリズムとの交差するメディアにも、尾崎翠はかかわっていたといえる。うらがえせば、昭和期のモダニズムにはそれだけの振幅があったということでもある。

尾崎翠を読む──「歩むこと」をキーワードに

 尾崎翠のテキストの表題には、「漫想」「途上にて」「第七官界彷徨」「歩行」というように、移動すること、出発点でも終着点でもなく過程にあって移ろうというあり方をキーワードにするものが多い。
 なかでは、「歩行」(1931)の冒頭と末尾にかかげられた「おもかげをわすれかねつつ・・・」の詩が興味深い。テキスト「歩行」を東京で読むかぎり、この場所がおそらく東京郊外のどこかであることを疑わなかった。
 けれども、鳥取の地を訪れ、尾崎翠が通った面影小学校、そしてその小学校の石碑に刻まれた上の詩節を読むと、むしろテキスト「歩行」の風景は、東京と鳥取との往還のなかで、紡ぎ出されたものではないかと考えさせられる。
 「おもかげ」は、恋人のおもかげと、故郷の固有名『面影』との掛け詞になってはいないか。故郷の風景の姿をどこかに宿しているというのではない。むしろ「歩行」の風景、その「野」の風景は抽象的、メタフィジックな心象風景と呼ぶべきだろう。
 〈私〉は「風景」のなかを歩む。そのかぎりにおいて、〈私〉に地図は必要ではない。目的地はなく、歩くことで、「おもかげ」を忘れさること、忘却だけが目的である。歩くことに没頭できるなら、「風景」もその地形も、念頭にのぼってきはしない。うまく忘れることができなければ、かすかな徒労感とともに、心と身体の重さがよみがえってくる。
 〈私〉は、彼女の憂鬱を心配した祖母の命で、お使いに出されているところだ。祖母は彼女の物思いを運動不足のためとして、重箱いっぱいのお萩を作り、それを親戚の松木夫人の元に届けるようにと送り出した。
 けれども〈私〉はなかなか、目的地にたどりつかない、それどころか一度は祖母のいる自宅まで舞い戻り、家の門をくぐることも出来ずに道を引き返す。歩いていると重箱の重ささえ忘れがちである。歩いていると、幸田当八氏を思い出してしまう。
 1910年代の半ば、鳥取に住んだ習作期から、歩くことは、尾崎翠にとっていわば書くことのモチーフであり、それだけではなく、方法論とさえいえるものだった。
 尾崎翠の小文、雑誌投稿の「短文」「散文」のほとんどが、歩くことを題材にしている。それもあけぼのの頃、あるいは宵の頃、つまり一日の光と影の境界を、その境界の時間帯を歩くこと。
 新しい季節、たとえば冬のなかにやがてくる春を感じ取りながら、また冬の季節に夏の残像を喚び起こしながら、つまり、移りゆく時間のなかに持続するなにかを、持続のなかに変化するなにかを意識しながら歩くこと。そうして浜辺、海の道、渚、砂浜といった、風・波・砂の、刻々と移り変わる光景を五官でとらえながら、陸と海との境界の領域を歩くこと。
 それらはここ鳥取の場所と時間、季節の現実に即した歩みであると同時に、時間軸・空間軸いずれをとっても境界領域を選びとって歩むこと書くこと、文学的な方法意識に貫かれた歩みというべきだろう。
 たとえば「朝」。視覚的な微細な差異がとらえられているだけではなく、ここには、静かな響き、海の香り、砂の感触といった、聴覚・嗅覚・触覚によってとらえられたイメージが、多彩に織込まれている。

人間嫌いと散歩嫌い──驀進と隠遁

 歩くことをキーワードに、尾崎翠を読み直すと、大きな転機が一九二〇年代の終わり頃にある。いつのまにか、尾崎翠のテキストは、散歩嫌い、外出嫌いについて、語りはじめるのである。そうして、散歩嫌いは人間嫌いというもうひとつの物語とむすびつく。
 たとえば、「詩人の靴」。散歩嫌いと人間嫌いのむすびついた物語は、後期尾崎翠のいまひとつの特徴をそなえている。それは、じつはナンセンスなことがらをひどく理屈っぽい翻訳的な構文や直訳的なイディオムをちりばめて語り、知的な笑いを醸し出すという、独特の文体である。
 このテキストの視点人物である詩人、津田三郎と呼ばれる〈彼〉は、脚を使った散歩、みずからの体をはこんでの視点の移動は嫌悪しているが、そのかわりに、室内の散歩、眼の散歩を行っている。眼の散歩は、眼の距離を保った散歩である。
 見る者は高いところに、見られるものは低いところにある。その隔たりと、上下の位置の固定は、対象を「浄化」してくれると、語り手はいう。そのうえ、この目の散歩は、「眼で程良い世の中の匂ひを嗅ぎ」というふうに、視覚と嗅覚という、感覚の交換を可能にすらしている。
 あるいは「新嫉妬価値」。こちらの「漫歩」は、「耳鳴り」に引きずられてのもの。「耳鳴り」という体の一部、聴覚器の揺らぎあるいは歪み、病理が、拡大して、身体のすべてを引きずってゆく。ゴーゴリの「鼻」を引用した設定だが、「新嫉妬価値」の方はあくまで、身体の器官としての「耳」ではなく、「耳鳴り」という感覚の状態が、問題にされている。「耳鳴り」が身体であり、「耳鳴り」に頭があり、背中がある。
 いっぽうで、「耳鳴り」をステッキでおしのけながら、散歩するカップル。こちらは、「耳鳴り」と対照的に、人込みを忘れ、忘れているからこそかえって足が速い。速さ、スピード、能率のよさといったものは、モダニズムの主要な価値の一つである。が、「耳鳴り」はここで、近代的なスピードのからくりを知る。
 執筆順にたどると、ここにエッセイ「映画漫想」が登場する。尾崎翠は、大正期の写生文のこころみを極限化し、再編することを通じて、移動する身体・身体とともに移動するまなざしによる世界認識、風景の把握に到達したのだが、いわば、その写生文の方法を受容器として、その見る〈私〉を再編することによって、彼女は映画的な風景を獲得した、あるいは彼女の風景は映画的なものへと変容したといえる。
 映画を語る時に、「歩くこと・移動すること」のイメージは過激なものになる。いっぽうで、移動のスピードを極限化した「驀進」が、「隠遁」を伴って語られるということは、たいへん興味深い。なぜなら、それは「人嫌い」「散歩嫌い」と同じく、後期の尾崎翠テキストの主要なテーマだからである。
 現代流にいうと引きこもりではないかと想われるほどの、人嫌い、散歩嫌い、外出嫌い、だが、その「隠遁」のなかに「驀進」がある、烈しい流動や前進や変化がある。この「映画漫想」の言説は、尾崎翠の後期テキストを読解する鍵になるかもしれない。
 「こほろぎ嬢」は散歩嫌い、人間嫌い、そして引きこもりのさきがけのような振る舞いについてのテキストの代表的なものだ。
 このテキストのなかで、歩む人、「こほろぎ嬢」の視界について、わたしたち読者はほとんど知らされることがない。そのかわりに、ここでは、歩む人「こほろぎ嬢」を閉じこめる、桐の花の匂いについて語られる。脚の散歩でもなく眼の散歩でもなく、鼻の散歩ということにでもなるだろうか。
 もっとも、「こほろぎ嬢」は、歩く人ではあるが、語る人ではない。語る者、示す者は、こほろぎ嬢とは分かれていて、わたしたち読者は、こほろぎ嬢の後姿を示されるのである。この語り手は、こほろぎ嬢の歩む過程については、ほとんど示そうとせず、そのかわりに、おもいつくままに、季節を飛び越え、心理学者の学説(虚構のものだが)を引用し、こほろぎ嬢の心理を分析する。
 さて、「私たちの知るかぎり、桐の花といふものは昔から折々情感派などの詩人のペンにも止まつた」と語り手が述べるとおりに、「こほろぎ嬢」が発表された『火の鳥』が歌人栗原潔子によって主宰されていたことから、当然同誌の読者にとっては自明のこととして、『桐の花』といえば、北原白秋の歌集が連想されたにちがいない。
 尾崎翠のテキストに戻ると、「地下室アントンの一夜」。ロシア文学で地下室といえばむしろドストエフスキーなのだろうけれど、ここはアントン・チェホフである。それでも、「地下室」のイメージが、いわば含意として、閉ざされ、監禁された者の過激な思想として、ドストエフスキーの地下生活者の手記を連想させるのは間違いないだろう。
 ここで歩くことは、ほとんど観念のなかの移動、いや観念としての移動であり、抽象化され記号化代数化されている。意識と無意識の間の境界は越境され、人間と動物との間の境界も、多様な動物の間の種の境界も越えられる。
 〈僕〉はえんえんと出掛けない事、外出を延期する事について語り続ける。その語りは、脱線し続け、まるで、意識にのぼることをそのままに物語の筋そっちのけで語っているかのようだ。ジェイムズ・ジョイスの1922年「ユリシーズ」に通じるものを指摘しても良い。
 「地下室アントンの一夜」は、表面的には、見かけの身体性においては「隠遁」「ひきこもり」の詩人が、にもかかわらず、その意識において、語りにおいては強烈なスピードで、時間を越え空間を越え「驀進」している、そういうありようを表象した、きわめて実験的なテキストといえる。

歩行と彷徨

 尾崎翠の代表作「第七官界彷徨」は、脚の散歩を封印したテキストである。語り手になぞらえられる少女小野町子の旅立ち、上京からはじまり、柳浩六の旅立ちに終わるものがたりのなかに、かつて習作時代に尾崎翠があれほど多彩にこころみた、歩くことと語ること・示すことは、ほとんど出てこない。むしろ脚の散歩を抑制することによって、他の諸感覚の散歩の可能性を追求したといえばいいのだろう。
 主人公・町子の外出にあたって、兄が目的地への道順を示す場面の資料を取り上げるが、ここに描かれるのは「匂いの地図」とでもいうべきものである。匂いは、その原因となる対象の位置を、空間的にも時間的にも特定することがむつかしい。匂う対象と匂いを感じとる〈私〉との距離を測ることがむつかしい。対象は空間的に拡散しうるし、時間軸でいえば、残り香は、それがいつ何処で発生したのか教えてくれないのだ。
 ときには、幾世代もさかのぼり、記憶を呼び起こし、無意識を刺激する。プルーストの「失われた時を求めて」(1913-27)が、幼いころの記憶を呼び起こすきっかけを、お茶に浸したマドレーヌ菓子の香りのうちに求めたのは20世紀文学の有名なエピソードだ。だから、匂いを目印にした地図とは、もっともナンセンスなものではあるけれど、時間の中のノスタルジックな散歩、記憶の中・無意識領域をたどる散歩の地図としてはふさわしいのかもしれない。

                 (講演草稿をもとに/抄録・土井淑平)

※講演の全文(加筆あり)と講演で使用した詳細な資料は『尾崎翠フォーラム・in・鳥取2005報告集』(12月1日刊行予定)に収録します。報告集の問合せと注文は以下まで。

      manager@osaki-midori.gr.jp