今年のフォーラム
Osaki Midori Forum in Tottori
第7回
尾崎翠フォーラム
in 鳥取2007
〔日 時〕7月7日(土)13:30〜17:00
講演・映画
7月8日(日)
9:00〜15:00 『こほろぎ嬢』ロケ地巡り
〔場 所〕鳥取県立県民文化会館(第1会議室) ほか
◆近藤裕子さんの講演◆
「尾崎翠における<わたし>
―転移と模倣― 」によせて
西尾雄二
近藤裕子氏は評論集『臨床文学論』(2003年、彩流社)において、川
端康成から吉本ばななに至る様々な文学作品の中の<わたし>を執
拗に、綿密に追跡した。年代順に配置された論集の最後に屹立するの
が、尾崎翠を扱った「匂いとしての<わたし>」であった。翠の作品を、
真正面から厳粛に受け止め、テクストの在り方そのものへと迫るその
誠実且つ繊細な手法に、深く感銘を受けたことを思い出す。
<わたし>とはとても簡単なことである、かに思われる。誰もが胸に
手を当てて「私」と念ずるとき、それが何であるかを言うことさえ愚かし
いほどだ。私が私であること、これほど分かり切ったことがあるだろう
か。私は私であることを、心理学の用語でアイデンティティと呼ぶ。
アイデンティティはそのように単純なものではあるが、しかしそれが成
立する過程に関しては、社会的・文化的な秘密も隠されている。しかし、
ここではそれを詮索しない。問題は、そのアイデンティティの危機とでも
呼ぶべき事態を尾崎翠が生きたと言うことであり、この危機は、言葉の
本来の意味で「病的」な事である。本来の意味とは、患い、憂慮し、日
々の活動から離れ去る、という意味である。それ故に、危機を生きる
(むしろそれに耐える)ために織られたテキスト群を解読する、近藤裕
子氏の方法は「臨床的」となったのであろう。
危機=クリシス、からクリニックという言葉が生まれ、またクリティッ
ク=批判という言葉もそうである。近藤裕子氏は、真に「批評的」であ
り、それは同時に「沈着冷静」と同義である。また、ある人の心のあり
よう、物事に処する態度を、エートスと呼ぶが、批評的であることは、エ
ートスの際だった在り方である。なぜならば、批評的であることは、そも
そも存在するものへの最も労苦に満ちた「理解」を前提にしているから
だ。
誰しも「全てを理解した」と豪語できるものは一人もあるまいが、しか
し、そのようなエートスに触れることは、稀にではあるが、できるのだ。
それは確かに「幸い」と呼んでいいだろう。
(尾崎翠フォーラム実行委員)
近藤裕子さんからのメッセージ
尾崎翠「第七官界彷徨」の登場人物小野町子は、詩人をめざす少
女であるが、いまだ彼女の望むような詩は書けない。彼女は与えられ
た自分の名前に違和感を感じ、その名が連想させる美貌とずれる自
らの容姿にも「遠慮」を感じている。「私らしい私」が見つからない少女
が、自分にしか書けない詩を求めて彷徨する物語は、自己発見・自己
実現のテーマを内包しているかに見えなくもない。また、そのような解
釈を示す論文も書かれている。
「第七官界彷徨」に限らず、尾崎の物語に生息する人物たちはしば
しばおのれの満たされなさを嘆き、何かを求めて彷徨う。しかし、それ
はいわゆる「〈わたし〉探し」の試みと考えてよいのだろうか?本講演で
は、〈わたし〉とはなんだろうかという問いから出発し、尾崎の描く〈わた
したち〉が模倣や転移(心理学用語で、すでに経験されている他者との
関係を、別の他者との関係に無意識のうちに投影してしまうこと)によ
ることを跡付けてゆく。この旅路の果てに見えてくるものは果たして「
本当の私」なのか、否か?
(近藤裕子)
(問い合せ・参加申込み先)
尾崎翠フォーラム実行委員会
〒680−0851 鳥取市大杙26 土井淑平気付
(TEL・FAX)0857−27−7369
(Eメール) manager@osaki-midori.gr.jp
チラシ・チケットは4月10日すぎにできます。メールで参加申込みを
される方は、4月10日以降、氏名・住所・電話番号・メールアドレス
を
明記のうえ、上記のEメール・アドレスに連絡して下さい。折り返
しチケ
ット・郵便払込み用紙・資料をお届けします。
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