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今年のフォーラム

Osaki Midori Forum in Tottori

           
             近藤裕子さんの講演抄録

「尾崎翠における〈わたし〉―転移と模倣―」

            
              東京女子大学准教授 近藤裕子

 

1 オリジナルあるいは〈わたし〉という幻想

  本日の講演は『転移と模倣』と題しておりますが、「転移」というのは心
理学的な概念なんですね。自分が自分の気持ちでゆったりしたりしている
と思っていることが、実は誰かの願望とか、期待とか、誰かの欲望とか、誰
かの思っているものを、いつの間にか自分のもののような気がして行動化
したり言動化したりしてしまっていることなんです。
  「模倣」も、これはお分かりになりやすいと思いますが、簡単にいうと真
似っこというんですね。誰かがしたことを後から追いかけてやってみるとか、
あるいは誰かが語った言葉を自分が言ってみるとか、そういうことです。こ
れは一体何と対立する概念かというと、オリジナル、独自であるとか、ある
いは〈わたし〉というものが確かにここにいるんだとかいうことと全く逆なん
ですね。
 尾崎さんのユニ―クさというのは実は近代文学、あるいは近代知がずっ
と信じてつくってきた自分は確かにあるんだ、人とは違うんだ、オリジナリテ
ィ、独自性っていうものが必ずあるんだ、それをつくっていくことが大事なん
だという考え方に対して、それは幻想じゃないか、それは嘘偽りじゃないか
ということを文学を通して語られた点にあるのではないかと私は思っている
んですね。

2 失われた恋、叶わぬ恋

 今日はそんなお話を、尾崎さん特有の「恋」というモチーフに即してお話し
たいと思います。尾崎さんのテクストの中の恋愛というのはいつも叶わぬ
恋、失われる恋というモチ―フで登場します。いわゆる片恋ものとか、失
恋ものという風に申し上げればいいかと思うんですね。
 尾崎さんのかなり初期の作品で、まさに恋愛を描いたものなんですが『初
恋』という1927年の作品があります。これは学生の僕が、ふだん住んで
いない田舎に夏の間ちょっと遊びに行くんですね。すると、そこの村では盆
踊りをやっていて、土地の人たちは参加してみんな輪になって熱狂的な踊
りをします。僕もそこに行くんだけれども、僕には恋人がいないので、友だ
ちの兼松君が土地のどなたかお嬢さんの長襦袢を借りてきてくれて、それ
を着込んで自分も祭りに参加する。
 そこに美しい青年が現われて心惹かれるんですが、よくよく見ると頚すじ
が女性的なんですね。あ、これは実は女性に違いない、しかもほんとに美し
い。尾崎さんの物語の面白さとは、お顔を全部見るとか、姿を全部見て美し
いっていわなくて、かなり視覚が閉ざされているんですね。ほとんど分から
ない。わずか数センチのうなじを見て、これは美しい女性に違いないという
風に思うんです。
 美しいお嬢さんを発見したのに、帰ってしまわれるものですから、一生懸
命追いかけて行くんですね。追跡して最後に分かったのは、自分のよく知っ
ているお家に女の人が入って行ってランプをつけたら、実は妹だった。自分
は恋愛をしたつもりだったけれども…というようなお話なんですね。
 しかし、このお話では最終的には恋愛は成立していないにもかかわらず、
物語の冒頭で自分は初恋をしたんだ、その初恋について語るんだという。
「恋」という命名が失われているにもかかわらず、命名がされているというと
ころなんですね。いやむしろ失われているがゆえに、初恋として主人公が命
名していったんじゃないかという風に私は考えます。そこにとても尾崎さん
的な失われたものとしての恋、あるいは叶わないものとしての恋という設定
が見られるのではないかと思いました。

3 借り物としての初恋

 この主人公は最終的にはある美しい女性に心惹かれて追いかけて行くん
ですが、元々恋の欲求が乏しい人なんですね。せっかく盆踊りに行って美し
い女の人たちがたくさんいるのに、あまり掻き立てられる感じがないんです
ね。欲求とか欲望、あるいは恋のパッションみたいなものが非常に乏しいで
す。これは尾崎さんの様々なテクストに共通することなんです。
 この小説のモチーフが恋であるにもかかわらず、その主人公は極めて欲
望、欲求、願望の乏しい主人公として現われてきます。そして乏しい僕の欲
望が物語の中で生きていくかというと、掻き立てるものがあるんですね。僕
の中から沸き上がらない。外から何かが訪れて恋をさせてくれるというかた
ちになっています。
 例えば、僕の欲望、欲求を掻き立てるものは何かというと、一つは祭りの
場です。日常生活ではないんですね。非日常というのは、やっぱり私たちの
心をドキドキさせて高揚させる力があります。またこの祭りというのは、円環
になって身体を動かして踊りつづけるんですね。身体も熱くなりますし、活
性化されていきます。音楽が鳴る、太鼓がワ―と鳴るという風に、身体の
レベルで掻き立てていく力が祭りにはあるんですね。
 この盆踊りというのは円舞ですから、ずっと時間が持続していくんですね。
どこかで終わるという感じがしなくて、持続しながら高まっていく。そういう場
がここに舞台として設定されています。そこで、この欲望の薄い、あまり恋
愛心も自分の中から出さなさそうな僕もそういう祭りの場に居合わせると、
刺激を受けていくんですね。ひとつ自分も輪の外にだけいるんじゃなくて、
入ってみようかという気持ちがちょっと湧いてきます。
 だけどやっぱり、彼ってなかなか行動化しないんですね。誰がやってくれ
るかというと、友だちの兼松君が「じゃ君、色男になるようにひとつ長襦袢
を調達してきてあげるよ」といって土地のお嬢さんの長襦袢を借りてきてく
れるんです。で、それを着込むわけですね。だけどここでもう一つ面白いの
は、他人にやってもらって、ようやく彼が恋愛していくということがあるんです
が、もう一つこれが借り物だということなんですね。所詮、自分の恋愛では
なくて、何かの借り物として初恋というものが動いていく。オリジナルじゃな
いんだということです。
 多くの欲求というのが、実は自分が選んだ気持ちになっていながら、つ
くられ掻き立てられていくものなんだ。そういうところをこの小説は、とって
も上手に描いているという風に私は思います。そして、この青年というのは
いわば恋愛を人から刺激される場「受動性」から、人の長襦袢を借りると
いう「代替性」、そして町の皆の衆の真似っこをして自分も踊るという「模倣
性」、こういうことによってかすかな恋のエネルギ―というものを掻き立てら
れていく。こうして初恋の場というものがつくられていきます。

4 恋を燃え上がらせる追っかけ

 実際に彼の初恋というのは、盆踊りの中では実らないですね。どうなるか
というと、ある美しい男装の令嬢らしい人の後を追いかけて行くというかた
ちで、だんだんだんだん燃え上がってきます。この男装の令嬢は自分が追
いかけられていることも気付かず、タッタッと走って行くんですね。その後ろ
をこの主人公が追いかけて行くんですが、ここにもう一つ、恋愛を推進させ
るエネルギ―というのがあるんですね。それは追跡ということです。追いか
けて行くっていうこと。手に入っちゃうと結構、幻想って破れません?
 追跡っていうのはやっぱり欲求を掻き立てていく、あるほどよい見失わな
いですむような距離にいること。しかし手が届いてしまわない、手に入らな
い、そういう距離を置いたところを自分がずっと追い掛けて行く。そういう
身体運動をしていくことが追跡だと思うんですね。追跡というのは、届かな
いがよいと同時に見失わないのがよい。そういう距離の中で、手に入らな
いために欲求が高まっていくという。ここでももう一つ、初恋を生んでいくシ
ステムというか、装置、しつらえがあるわけです。そこで「追いかける」です
が、みなさんこれ、実感的にはありますよね。ザ・ピーナッツまでが「追い
かけて、追いかけて」と歌います。
 それから月光が照らす闇の中で、かすかにしか見えない。視覚の不自由
ですね。見えちゃうと、よくわからないですね。みなさんご結婚なさって、例
えば奥さまの一から十まで全部見てしまう。夫の一から十まで見てしまっ
て、恋の欲求っていかがですか? さらに継続されている方は、強靭な精
神力をお持ちだと思うんですが。やはり見えない、分からない、不可知で
あるというところに、恋って燃え上がりますよね。
 初恋というのは、こうやって彼の中では体験されるんですね。ではこの後
どうなったかというと、実は月光の闇からお嬢さんがマッチで火をつけ、さ
らにランプに光が当たって、この視覚の不自由というのが一気になくなって
しまうんですね。見えてしまう、現実がわかってしまう。それは妹だという、
いわば恋愛対象にならない存在がわかるということでもあります。もう一つ
「うちの妹は美人でない」と書いてあるんですね。つまり美的幻想がここで
終わっているんだろうと思うんです。
 現実の初恋は以上によって破れます。にもかかわらず面白いのは、それ
を恋として語るというところなんです。手に入れたから恋愛じゃなくて、無く
なったという感じがある、失ったという感じがある。だからそこに恋愛があ
ったんだろう、というかたちで恋愛を生成させていく。だから失われた、叶
わぬという設定が必要なんだろうと私は思うんですね。 
 この失われた叶わぬ恋というモチ―フは、この後様々な小説で繰り返され
ていって、彼女の小説では手に入らないことが、実は恋愛を成立させている
という証明になってきます。

5 叶う恋は味気ない

 ではどうして叶う恋ではいけないのか。叶うと味気ないんですね。現実の
恋は味気ない。例えばですね、『第七官界彷徨』は一九三一年ですから『初
恋』よりも四年後の作品なんですが、ここではちょっといいなと思っていた
三五郎にキスされるんですね。私たち通常考えたら、いいなと思っていた
人が、うなじにチュとかしてくれたら、ワッとなると思いますよね。凡人はそ
うなんですね。
 ですが、主人公である町子さんは、三五郎から不意に与えられた接吻は
全然何の感興も呼ばない。こんなあっさりして、こんな味気ないものなのか
という風に感じるんですね。そしてなおかつ彼女は、本物の恋というのがど
こかにあるんだっていう風にも。
 こんな味気ないものなら、これはいらない。味気なくない行為がどこかに
あるはずだ。その味気なくない行為を手に入れるためには、失恋しないと
いけない。失恋しないと、もっと素敵な恋には至らない。つまりそれは事実
ではなくて幻想、夢の恋愛だからなんですね。そういうシステムはどうも尾
崎さんのモチ―フにあるんだろうと思いますね。
  つまり何かというと、叶う恋は味気ない。これは 『花束』 という 1924
年の作品でも同じように書いてあります。みなさん一生、素晴らしい恋愛を
しようと思ったら、追跡しつづけなければいけないですね。 手を触れたら、
もう終わりなんですね。まして結婚するなんて言語道断で、それだけはして
はならぬっていう風に思うべきなんだと私は思いますが、私も結婚してしま
いました。もっと早くにこういうシステムに気付いていればよかったなあと思
います。
 私がいま繰り返し恋愛について異性という風にお話していますが、恐らく
恋愛とは別に異性との間に行なわれるものではないだろうと思いますね。
同性同士であってもかまわないんだろうと思います。そういう広がりが尾崎
さんの小説にはあると思いますが、実際にこうして読んでいくと異性との恋
愛の方が前面に出ていますので、どうしてもお話する時は、異性と言わざる
を得ないところがちょっと残念なところであります。
 こんな風に現実の恋は味気ない、だから恋愛幻想をつくっていかなきゃい
けない。その時には一つは失うことが大事なんだ、手に入らないことによっ
て恋愛幻想に至るんだというのが一つの通路だといっていいと思います。

6 真似っこ(模倣)と食べ合うこと

 私がここで注目しているのは、「真似っこ」ですね。『歩行』という1931年
の作品では、小野町子さんの連続体なんだろうなと思わせるような、しかし
名前はない女の子が幸田当八さんという心理医者みたいな方と恋の戯曲
を読むとシ―ンがあります。
  この幸田さんと私という女の子は、 お祖母さんの目の届く所にいるとちょ
っと恥ずかしいから、できない。お祖母さんのいない所に移動するんです
ね。そしておしめ篭の上に当八さんが座って、恋の戯曲を読みます。その
時一つ面白いのは、柿を食べ合うんですね。
 もう一つは、恋のセリフを読み合うことですね。すでに作られたセリフ、私
の中から出てきた恋の言葉ではない、あらかじめあるセリフではあるけれ
ども、それを読み合うと一体どうなるのかという話なんですね。こういうこと
をした後、主人公の私は当八さんが去って失うことを経て、恋の思いに囚
われていくんです。恋の思いに囚われる以前の私にとって、これがどうも恋
愛を生み出した作用らしいんですね。
 実際にお芝居などで女優さんと男優さんが恋愛のスト―リ―を演じると、
終わってから結婚してしまうということ、よくありますよね。中村獅童さんと
竹内結子さんとかのようにね。本来二人は持っていなかったはずの恋愛な
のに、模倣ですね、せりふを真似っこして自分のものじゃないのに、演じて
いるうちに自分のものになっていってしまう。演技というのはもちろん嘘だ
けれども、それが実感に変わっていってしまう。なぜなら、それを身体がち
ゃんとしゃべってしまうからなんですね。
 それから、食べ合う、共食するというのも交流性がある。一緒に同じもの
を食べると、その間に非常に親しみの感情が湧くんだという風に心理学的
にはいわれています。これはみなさんもご経験があるところだと思うんです
が、誰かをデ―トに誘う時に、「ご飯でもひとつ」とか、「お茶でも」とおっしゃ
いますよね。食というのは交流性を起こす働きがあるんですね。
 実は食にはもう一つの働きがあって、転移を起こす。交流と似てるものな
んですが、もっと深く相手に対しての親密度を高めてしまう働きがあるんで
すね。転移というのは、自分と相手とが区別がつかなくなっていってしまう
感じ。あるいは自分がそこにいる、相手がここにいるみたいな感じなんです
が、食べると交流性がもっとひどくなって、病気の人の場合なんですが転移
に至るんですね。
 ですので、カウンセリングの場でお医者さんと患者さんが一緒にものを食
べちゃいけないんです。それをやっちゃうと、過剰に患者さんは先生に親し
みを覚えちゃう。あるいはカウンセラ―さんに吸着されちゃうですね。ですか
ら、それは転移を生じるのでいけないという風にいわれています。

7 転移と無意識

 転移って何かというと、〈わたし〉とわたしでない人、AさんとBさん、これ元
々心理学の概念なので患者さんとカウンセラ―、あるいは患者さんと精神
科医の関係なんですね。例えばこの先生が「来週お約束してたんだけど、
だめになりました」という感じのことをいったとしますね。そうすると、単に来
週だめになったんで、来週ちょっと日にちを替えるとか、一週間後にすれば
いいというメッセ―ジですよね。ところがそれを聞いたとたん、この人はワー
となって「裏切り者!」「なんだ、裏切り者!」という風に叫ぶことがあるんで
すね。一体どうしてこんなことが起こるかというと、これは転移と呼ばれるも
のなんです。
 Aさんがこの人との関係以外、外にある重要な誰か、お父さんとかお母さ
んですね。 あるいは恋人、ここすごく実は大きいです。  恋人とか先生とか、
重要な他者と呼ばれているんだけど、この重要な他者との間にある気持ち
の動き。例えばお母さんとの関係の中で、お母さんがしょっちゅう約束を破
って、 ものすごく傷ついた体験を持ったとしますよね。本来はお母さんとの
間で起こっていた感情があるわけですね。先生と全然関係ないわけです。
約束を破って、裏切られたという感じ。ところが人間って、ある関係が接近
してくると、これをここに置き換えていってしまう。これが転移っていうんです。
 これって、実は恋愛もかなりそうなんですね。大体ね、こう心理的にみて
いくと、親子関係の行き詰まりを恋人に置き換えてやっていくことが多いで
す。親子の間で起こった様々な痛みとか苦しみを恋人に補ってもらおうとし
て、「あなたは違うわよね」っていう風に、恋人に転移感情をパ―とぶつけ
ていくことが多いです。で、失敗することが多いですね。という風に転移とい
うのが心理学的にはあります。
 1920年代はまだまだ〈わたし〉は何を選ぶのか、〈わたし〉は誰を愛する
のか、そしてあなたは誰を選ぶのかっていう風に、はっきりと自分の中に意
志を持っていくことが新しい。あるいは、はっきりと自分の行動というものを
統御できるということが近代だと考えられていた時代、さらにそれは幻想だ
というところにまで行ってしまっている。そこが尾崎さんの非常にユニークな
点だと思う。
 こうやって、自分の中に起こったんではないものがあたかも自分のもので
あるかのように出て行ったり、あるいは本来ここに投影させるべきものでは
ないものが投影させられていくというのが、今ではきっと少しは分かる、リア
ルだと思う。
 転移の概念をもう一つご紹介します。心理学的には今申し上げたように、
フロイトが考えたように、AとBのここで起こっているはずの関係なのに、A
が外で結んでいるC、D、H、Iとの関係に投影されていく。フロイトの場合、
重要な箇所は大体幼児期の親なんだという風に考えています。結構狭い
転移の概念ですね。それに対してユングの転移というのは、もうちょっと面
白くて、人A、B、C、Dさんですね。
 ところがもう一つ下に、それぞれ個人の無意識と共通の無意識がある。ユ
ングは共通の無意識の世界を集合無意識と呼び、人間の底の底の底の方
にはあるんだという風に考えた。
 ユングにいわせると、転移というのは、ここで起こるんだというんですよ。
人的な経験ね、私は父にいじめられましたとか、恋人に裏切られましたと
か、でも女友だちにすごくいいことをしてもらいましたとか、理解されました
とか、いろいろありますよね。そういう個人のレベルじゃなくて、人間の共
通の記憶のようなものがあって、それを共有してるんだ。こことここがつな
がる、転移するというのは、この人がこう入っていって出ていく、そういう転
移があるというんですね。

8 『地下室アントンの一夜』の世界

 何でユングを持ってきたかというと、地下室アントンの世界というのが実
はこれに近いんではないかと思っているんですね。ここでは、非常に対立的
な松木氏と土田九作さんの二人が現われます。登場人物はもう一人、幸田
当八さんという割りに調和的な方なんですが、この人この物語ではあまり活
躍していません。 
 松木氏は近代科学を生きている方向の人。この人はとにかく現実をしっか
り見て実証しなければいけないんだというんですね。そして矛盾があっては
いけないと。近代科学というのは、一つは実証によって保証される。もう一
つは、もう一回同じ条件で実験をしたら同じ結果が出るという再現可能性。
今日やっても明日やっても、同じ条件であれば同じ結果が出ると。じゃない
と科学的といわれないですね。
 これに対してスピリチュアル詩人の土田九作は、象徴詩人なんでしょうか
ねえ。何か私、なかなかうまくレッテルが張れない。張らない方がきっとい
いんだろうと思うんですが。こういうものはやっぱりおかしいんだ、と感じて
しまう人なんです。近代科学の発想とか世界観というものは、全然芸術的
なものを生まないじゃないか。つまりこういう世界は、私的想像力を掻き立
ててくれない、想像力をむしろ壊すんだ。
 こういう風な明確な対立が起こっているんですね。だけどもこのまま対立
していくかというと、私面白いと思ったのは、この対立を何とか融合させよ
うとするんですね。その融合させようとする働きというのが二つあって、一
つは地下室という不思議な場所、もう一つは奇妙な転移する語りなんだと
いう風に思っています。転移によってそれまで分けていた境界を溶かしてし
まうんだ、そういうことが起こるんだという風に思うんですね。
 地下室にその三人、土田さんと松木さんと幸田さんが入っていくと、それ
まではそれぞれ違っていたんですね。特に松木さんと土田さんはものすごく
対立しているんですね。ところが地下室にこの三人が入っていくと、すごー
く仲良しになってしまうんです。
 この世界とは何だろうという時に、こういう自我が分割する以前の世界、
強いて言えば私は集合無意識に近いんではないか、あるいは集合無意識
というともう一つ深いので、身体的な融合性、身体的な共感性ですね。身体
的というのは深層心理的ともいっていいんですが、集合無意識よりもうちょ
っと手前の世界でつながっているということではないかと思うんですね。
 これを小説として成立させていくには、語りの転移、語りのレベルでの転
移というのが行なわれている。それは何かというと、松木さんは証明してい
く実証主義者なんですね。ところが、この人が書いた論文があるんですね。
あるいは、この人が書いた日記があるんです。この日記がですね、全然科
学者っぽい文章じゃないんです。どういう文章か、ちょっと読みますね。「季
節はずれ、木犀の花咲く一夜、罎のおたまじゃくしは一個の心臓に如何な
る変化を与えたか」。 
 文章自体は非常に詩的ですよね。であるがゆえに、この文章に土田さん
は非常に共感性を帯びてくるんですね。つまり、こういう文章の中ですでに
松木さんと土田さんは文体のレベルで共感が起こってしまう。私の言い方
でいえば、「移っちゃってる」「転移が起こってる」。こういう二つの転移によ
って、この人たちは対立をほどいていくんだろうという風に思っています。

 尾崎さんは一体何を書かれたかというと、一貫している、たった一つ、人
とは違うというような近代自我を書いたんではなくて、それがいかに私たち
の実感と少しずれいるか。じゃ私たちの実感的な〈わたし〉って何だろうか、
ということを書いていたのがこの人の文学で、それは本当にあまりにも早い
時点で書かれた斬新なものだったという風に思います。そういう尾崎さんを
生んだ鳥取県のみなさんは、郷土の誇りとなさっていいと私は思います。

                   (記録・山本薫里/抄録・土井淑平)

※講演の詳細は『尾崎翠フォーラム・in・鳥取2007報告集』(12月刊行予定)
に収録します。報告集の問合せと注文は以下まで。

       manager@osaki-midori.gr.jp